幕軍えとせとら7,箱館戦,中島三郎助特集
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| 【中島三郎助えとせとら】_No.3 |
| 【中島三郎助えとせとら】:No.1<No.2<No.3(現在の頁) |
中島三郎助に流れる血とは:血縁迷路 |
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現在の頁、このコーナーは、「中島三郎助と蝦夷桜」SEREISの追加詳細などです。
(本ページ内に書ききれなかった事などのおまとめです。) | この頁内概略 |
他にも、中島三郎助こだわりメモ有の頁 |
- 中島三郎助と父、清司時
代の時代背景 - お固め四藩との交わり、
視野の拡大 - 浦賀ブレーン大きく
なったり、縮小されたり - 長崎伝習所に初め派遣
された浦賀勢 - 同時に長崎出向した
ほかメンバー概略 - カッテンディーケの悩み
=おじさん族 - 長崎残留組_残留おじさ
ん達の価値と構想 - 築地講武所内の軍艦
操練所 - ウィリアムズの随行記に
出てくる中島三郎之助 - スケハナ号のブキャナン
艦長が招待した日本人 - 江川英龍の世界:
韮山と浦賀 - 砲術の進化スピードに
余計な足枷 - 予兆=江川と鳥井、鳥井
と水野:蛮社の獄
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【中島三郎助えとせとら】:No.1<No.2<No.3(現在の頁)
中島三郎助に関係なさそうで関係ある人発掘の頁
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中島三郎之助と父、清司時代の時代背景 |
■お固め四藩との交わり、視野の拡大
中島三郎之助_永胤本人の父、清司_永豊時代からは外国船に脅かされる日本はMAX。 幕府は度々、その詳細や担当領域を変更しながらも、江戸湾広域、海防対策、特別派遣部隊で
固めていた。
お固め四藩+他藩:その詳細、及び担当領域は度々変更
メインは会津藩、彦根藩、川越藩、忍藩
1 | 会津藩 500人 | 1810 文化7年2月 | 相模 | 浦賀平根山、観音崎に砲台建設 | 2 | 白河藩 600~800人 |
〃 | 安房、上総 | 洲崎、竹ヶ丘に砲台建設 | 3 | 川越藩 (藩主:松平斉典 小田原藩 |
1820 文政3年12月 | 相模 | 上記1の相模から会津撤退、浦賀奉行の担当となる。 応援藩として左記2藩 |
4 | 佐倉藩 久留里藩 | 1823 文政6年 | 安房、上総 この時大幅縮小 |
上記2の白河藩撤退。代官_森覚蔵所轄に変更 応援藩として左記2藩 常勤の会津と白河の千人余撤退→代官の手代40人 |
* | * | 1836 天保7年 | 大飢餓:奥羽では死者10万人。浦賀は幸い天災無。天保8年:大塩平八郎の乱 |
5 | 忍藩 藩主:松平忠国 川越藩 | 1842 天保13年 | 相模 |
* | 房総 | * | * | 天保 13/12/24 | 下田奉行所を復活、新規に羽田奉行所設置 | 6 | 彦根藩 |
1847 弘化4年2/25
| 相模 | 従来の川越藩に彦根藩を増員 | 7 | 会津藩 | 〃 | 房総 | 従来の忍藩に彦根藩を増員 | 8 | 掛川,沼津,小田原藩 (有事出兵担当藩) |
1849 嘉永2年閏4月 | 伊豆下田 | 下田入港したマリーナ号に韮山代官江川英龍が対応 この時、下田奉行_戸田氏栄は英艦の図面を入手。 キーマンは中国人通詞「林阿多」と通詞として乗船 していた音吉(漂流民)。試作船「蒼順丸」誕生。 |
9 | 長州藩,熊本藩 | 嘉永6 1853 | 相模 | 彦根藩,川越藩に代り。 | 10 | 岡山藩,柳川藩 |
嘉永6 1853 | 房総 | 会津藩,忍藩に代り。 | 11 | * | 文久元年 1861 | * |
長州の相模中、三浦半島南~西岸は兵置かれず。 長州撤退。 | 12 | 二本松藩 | 〃 | 房総 |
岡山藩,柳川藩撤退。 | 13 | 佐倉藩 | 文久3年 1863 | 相模 | 熊本藩撤退 |
海防の様子を読んで知る
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■浦賀ブレーン大きくなったり、縮小されたり- もともと、幕臣初代:中島定房時代は浦賀でなく、下田だった。2代目_中島三郎衛門時代に、
幕命は下田奉行所から、要所は浦賀奉行所に推移。(江戸から遠すぎることと手狭。)
- 文政2年正月、浦賀奉行は二人体制になり、一人は江戸、一人は浦賀。
- 文政3年:与力4騎、同心24人新規採用。そのため与力14騎+同心74人時代となる。
この頃、上記会津他、お固めブレーンが援護体勢で手薄だった近郊全域にカバーが入る。
- ペリーが来た頃、浦賀担当の奉行は、戸田氏栄(うじよし),江戸在勤奉行は井上弘道(海防掛~
- ペリー対応4人は浦賀衆:
- 浦賀奉行{戸田氏栄,江戸在勤奉行は井上弘道}
- 浦賀与力{中島三郎之助,香山栄左衛門}
- この年に与力に任命されていた者{中島三郎之助,香山栄左衛門,田中信吾,佐々倉桐太郎}
- 後、井上弘道は大目付に昇格のため、後任は伊沢政義。伊沢は長崎経験有り。
■長崎伝習所に初め派遣された浦賀勢
- 中島三郎之助(35歳):与力:士官要員
- 佐々倉桐太郎(28歳):与力:士官要員
- 土屋忠次郎(39歳):同心:下士官要員
- 浜口興衛門(37歳):同上
- 岩田平作(28歳):〃
- 飯田敬之助(27歳):〃
- 春山弁蔵(35歳?):〃:別説では39歳
- 山本金次郎(29歳):〃
- 金沢種之助(28歳):〃
- 熊蔵:(42歳)船大工棟梁の勘左衛門弟子:大工
- 長吉:(32歳)船大工棟梁の重五郎弟子:大工
- 浦賀の水主19人+塩飽の水夫12名:水夫&兵要因:彼らは鳳凰丸の操縦をしていた。
この時、同時に出向したほかメンバー概略 (偉い人にはオマケがつく。榎本はこのオマケの席から這い上がった。)
- 永井尚志:取締り役:この後第二期取締役は岡部長常,第三期は木村摂津守喜毅
- 矢田堀景蔵(+聴講生としての内侍、若党=榎本武揚+塚本恒輔+○人)
- 下曽根次郎助(+聴講生としての内侍、若党)
- 江川代官手代:望月大象,鈴藤勇次郎,小野友五郎他,
- 上記で生じた内侍、若党は合計23人が員外聴講生として存在している。
- 勝麟太郎(+聴講生としての内侍、若党)
- 鉄砲方:井上組、田付組の与力同心:彼らは海路でなく陸路から行く。
- 井上組:代々、井上左太夫と名乗る。その組の者
田付組:オランダ製輸入銃器、田付四郎衛。その組の者
- 佐賀藩士:48名
第2期受講生(第1期の補充+長崎地元役人≒98人
- 浦賀勢:
- 伊沢謹吾:(浦賀奉行出身で、後大目付になった伊沢政義の三男)
- 伴鉄太郎:函館奉行支配調役並となる。
- 岡田井蔵:岡田増太郎の弟=中島の血縁:父の弟の子=従兄弟結婚の彼にとって妻の弟
- 榎本武揚、
- 当初内侍の為員外の席だったところ、離脱。正常な学生の資格を得る。
- 内侍の席に入るとて大変だった。蝦夷探検の経歴で世話になった堀利煕の縁で
矢田堀景蔵の内侍・若党に滑り込み。原因は身分。武士の中でも低かった。
- さらに、昌平坂學のクラスメート伊沢金吾(上記)の父に推薦してもらった。
- 江川勢:柴弘吉,松岡盤吉,肥田浜五郎他
- 佐賀藩48人:佐野栄寿衛門(常民),中牟田倉之助,本島藤太夫他
- 福岡藩38名
- 薩摩藩25名:五代友厚,川村純義,
- 長州藩15名:香川半助,桂右衛門,野村弥吉(井上勝)
- 熊本藩6名:池辺啓太
- 福山藩4名
- 津藩14名
- 掛川藩1名
- 田原藩1名
第3期受講生- 浦賀勢:浅夷捷次郎(与力:蒸気機関),合原操蔵(砲術),柴田真一郎(同心柴田伸助の子),他
- 江川勢:赤松大三郎(則良),他
- その他:澤太郎左衛門,内田恒次郎,小杉雅之進,根津勢吉,他
カッテンディーケの悩み=おじさん族
永井尚志(取締役)に何回も忠告している。「おじさんは無理。頭カタイ。若い子呼べ!」 「おじさんは出世の肩書きと勘違いしてるわ、『俺はそれは要らん。こっちを教えろ!』とか 我がままでデキの悪いおじさん、もういらない!」「身分に関係なく優秀な子を連れて来い!」
「身分が高くて言う事聞かないタイプ、もう要らない!」
長崎残留組_残留おじさん達の価値と構想- 中島三郎之助:造船と蒸気機関に執着。コットル船を建造中
- 春山弁蔵:造船:同上
- 勝海舟:初め、特に典型的おじさんで困ったが、学力は関係なく、しだいに彼のマネジメント
能力で学生のとりまとめなど便利と気付く。講師側はその点で、力を借りるように転じる。
- 飯田敬之助:砲術修行
- 望月大象:江川手代:蒸気機関技術習得の為
- (榎本武揚はおじさんでもなければ、成績不良落第残留でもない!!)
初回は身分が低いことから員外聴講生。認められて正式な学生として残留。 二等仕官ウィッヘルズの驚愕
日本人だけで航海演習。咸臨丸の先導で、鵬翔丸で鹿児島までTRY。 生徒側から希望が出たが、その時、申し出たメンバーに航海術専修した者がいないので、
カッティンディーケ苦汁。なんとかなりそうな者といえば、水夫の誰かをピックアップするか、 マルチ派柴弘吉くらいで、他は専用ポジションから動かせないし、残りはれいのおじさん族だから、
頭を抱えた。 一応、二等仕官ウィッヘルズが、中島と春山を促成栽培してみることにした。 二等仕官ウィッヘルズ、驚愕!! ただのおじさん達は、すぐ理解した。かつて鳳凰丸を乗り組、昌平丸を操船して江戸から長崎
まで来た経歴がある二人だった。さては、勝手に頑固に自分の分野を深めてたか? この時に係る勝海舟の日記には、中島のナも出てこない。悲しい。この二人猿犬状態は修復不可。
口に出して悪口を言ってるのは勝側のみで、中島は死んでしまった。しかしながら、 こうしてみると、理系にぐ~んと秀でる中島、そのへんの話全然ダメな勝を完全無視! して暗黙ちょいイジメ?だったかも・・・。
穂積清軒略伝による中島「公務怱忙自修の暇なきをもって・・」と悔いている。 最終的には、親子揃って、徳川報恩義に殉死ですが、蝦夷政権が成り立ったら、二人の子に 精一杯学ばせて、輝かせてやりたかった親心が悲しい。
■築地講武所内の軍艦操練所 _安政4年閏5/11
長崎卒業生達が教授方出仕でスタート。中島38歳。しかし、この頃から持病喘息危うし。不調。- 総督:永井尚志
- 教授方頭取:矢田堀景蔵
- 教授方=8名
- 浦賀勢:与=与力,心=同心と略
1_佐々倉桐太郎(与),2_浜口興右衛門(心),3_岩田平作(心),4_山本金次郎(心),
- 江川勢:代官手代=代と略記
5_小野友五郎(笠間藩士だが、江川に砲術を学びに来ている。) 6_鈴藤勇次郎(代),7_石井修二(代), - 8_中浜(ジョン)万次郎:この人は別格、帰国漂流民経験と実力。
- 教授方手伝=8名
- 浦賀勢:与=与力,心=同心と略
1_土屋忠次郎(心), - 鉄砲方_田付四郎兵衛組:1~5全員与力
2_尾形作右衛門,3_関川伴次郎,4_村田小一郎,5_近藤熊吉
- 鉄砲方_井上左太夫組:同心=心,
6_鈴木儀右衛門(心),7_小川喜太郎(心), - 8_塚本恒輔:幕臣塚本法立の子、榎本同様に身分が低いため、当初、矢田堀景蔵の内侍若党と
して、員外聴講生として受講していたが実力を認められる。
この後、松岡盤吉他、順次教授方が入ってくる。また当時の資料は漏れが多く、上記の他、 判明しているのは、中島三郎之助、榎本武揚、春山弁蔵、肥田浜五郎、伊沢謹吾他。
柴弘吉(誠一)と望月大象は江川の里へ、早々に文久年間、軍艦組出役。 飯田敬之助は浦賀に戻り、海軍以外で活躍か?
| ウィリアムズの随行記に出てくる中島三郎之助
◆米高官には完全に嫌われてる。詮索好きで煩い。表情がきつい。嫌い!
◆しかし、ウィリアムズ本人はそうでもなく、良く観察している。- 釣り糸を使って、巧みに艦船の測量をクリア。図面能力評価価値有。
- 菓子持参した。ジャム入りの菓子数種類とある。って何なんでしょう?
- 冷静沈着な男。晩餐会中、香山が腹痛を訴えると、準備万端の薬箱から
丸薬を出して飲ませた。 - メモ魔。他の者と異なり、たえずウロウロしながら、なんか書いている。
- オリーブ油を酒と間違え、ツラッとお清まし顔で、飲んでいる。
- ブキャナン艦長の帽子を被って、鏡の前でひょうきんポーズ。
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下枠8番:堀達之助 | スケハナ号のブキャナン艦長が招待した日本人=10人 |
- 中島三郎之助(与力)
- 香山栄左衛門(与力)
- 今西宏蔵(応接掛同心)
- 寺田彦二郎(応接掛同心)
- 春山弁蔵(応接掛同心)
- 平山兼二郎(徒目付)
- 山本文之助(小人目付)
- 堀達之助(通詞)
- 立石得十郎(通詞)
- 名村五八郎(通詞)
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江川英龍の世界:韮山と浦賀 |
江川塾と関連者 |
■もともと、浦賀は江川の里に縁有。しかし、江川が鳥居耀蔵の刃にかかり、しばし、浦賀は
距離を保つ。江川の話はタブーの空気。 ■しかし、下記、鳥居耀蔵の弾圧で連座の経歴を持つ、下曽根金三郎(信敦)と、内田弥太郎は、
高島流砲術家として、浦賀に関与することになる。下曽根は優秀な鋳物師_松三郎お抱え状態。
■砲術の進化スピードに余計な足枷:「蛮社の獄」による弾圧
江川本人は、老中_水野忠邦に一命を救われたものの、水野忠邦までが足を救われ、罷免の後、 形式上復活するが、力喪失。折角指南役になった江川は鉄砲方から降ろされる。 危険を察知して、江川と歩調をあわせず慎重に動いた浦賀は、実質高島流砲術を獲得するまで
7年の遅れを享受することになる。下記はその経緯。
「蛮社の獄」 1839年(天保10)年5月:言論弾圧事件
- 被害者チームは:「尚歯会」
開明派の海防問題などを新しい知識と学問を基本に於いて、時代にあわせて前向きに 深く議論する会。洋学、砲術、造船、殖産興業、科学、海軍、などバージョンも広い。
- 「尚歯会」メンバーは:
■蘭学者_高野長英:蟄居処分。貧困生活。やがて、家系は断絶 ■小関三英:1839年(天保10)年5月捕縛騒動と同時に自害となっている。 ■幡崎鼎、■幕臣_川路聖謨、■羽倉簡堂、 ■蘭医_渡辺崋山:逃亡、硝酸で顔を焼いて人相を変えていた、垂れ込みで捕縛、 自害ともいわれるが、拷問?=捕縛籠で既に息絶えていた説もある。 ■江川英龍(太郎左衛門)など
予兆=江川と鳥井、鳥井と水野:蛮社の獄に至る前の各事件
モリソン号到来事件以来、迫り来る外国の脅威に備え、江戸湾防備強化の必要性痛感の幕府。
老中_水野忠邦は、1838(天保9)年、相模地区見聞と測量を実施させる。選抜は下記2名。
- 正使:鳥居耀蔵_目付(昌平黌、朱子学を尊重する林述斎大学頭の四男):洋学大嫌い派親子
- 実戦担当者として鳥居が選んだ者
■小笠原貢蔵(小人目付)
- 副使:江川太郎左衛門英龍_韮山代官
- 実戦担当者として江川が選んだ者(渡辺華山に依頼して推薦を受けた者)
■内田弥太郎(伊賀者)身分は普請役格にした。 後に浦賀へ洋式砲術家として出仕。 ■奥村喜三郎(=寺侍:増上寺代官の) ■上田喜作:田原藩士,測量技術有,内田の従僕ということにして随行
全員渡辺崋山のブレーン。しかし身分が低い。 - 伴った手付、手代:松岡正平,斉藤左馬之助、中村清八
鳥井側から、度々の攻撃
- 上記測量実施の際には、奥村喜三郎の身分を理由に撤退させるなどして、開明派の江川を
不利にする。 - 江川ブレーン&「尚歯会」メンバー弾圧の為に、罪の捏造:密航、幕政批判、外国尊信
- 上記、「蛮社の獄」被害者の他、実質嫌疑者となり、翼折られた人物
- 高島秋帆親子へ陰謀。幕府に陰謀を諮った&密貿易などという冤罪で投獄。
- 高島秋帆:徳丸原で洋式である高島流の砲術演練を公開。
- 高島秋帆の部隊:幕臣、諸藩士。長崎の地役人5名、韮山代官所_10名、
前長崎奉行_田口喜行の家来15名、御家人&旗本の家来11名、その他 ■この段階で、浦賀勢は、鳥井の危険な動きを察知。ここに関与していない。
- 高島秋帆は、下曽根金三郎と江川英龍に伝授。左記2名は砲術指南となる。
- 水野忠邦の罷免
・水野忠邦を、老中_土井利位と諮り、罷免に追い込む。1844年。
・同時に強化されつつあった軍事が縮小され、羽田奉行と下田奉行廃止。 ・洋式砲術である高島流も影を潜める。
| 幕末玄関<人物名から追跡<【中島三郎之助えとせとら】:No.1<No.2<No.3(現在の頁) |
| 文章解説(c)by rankten_@piyo、
| <幕軍&松前えとせとらの目次<・・<Vol.7(中島編の3番:現在の頁)<Vol.8(一般編) |
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